明星学園/第二明星学園 運営方針
明星学園・第二明星学園
総園長 宮下 智
1.はじめに
2016年度再構築された明星学園の理念、それが「みんな幸せになりたい~あなたも私も~」です。そして、その具体的な内容を伝える憲章には「明星学園は本当の気持ちを伝えられずに困っている知的障がい、自閉症の方にパーソンセンタード(本人中心)を基本とした行動すべてが発信であるというお心主義の信念で、意思決定支援を実践するあなたも私も幸せになる場所です」とあります。
その「みんな幸せになりたい」のみんな、実は多くの意味が込められています。
・どんな障がいの重い知的障がいの方であっても、意思があり、幸せになりたいと願う厳然とした個としての存在であること。・私が幸せになりたいことは、十分この私は感じることができるけれども、目の前の他者の存在に対しても、その障がいの在る無しにかかわらず、幸せになりたいと願っている個であることを感じて欲しいこと。
・僕たちの仕事は他者の人生に多かれ少なかれ、好むと好まざるとにかかわらず関与してしまうことが必然で、その時につける足跡は、あの人に会えて良かったと思って頂けるようなかたちでありたいこと。
・自らが関与していくことで、目の前の人が幸せになっていくのを見ることが、自分にとってもかけがえのない幸せであるということ。
・自分一人が我慢していることで成立している他者の幸せは、嘘っぱちで、みんなが少しずつ我慢してみんながほどほどの幸せを手にしていくことが本当の幸せであるということ。
・知的障がいの方々を支援するという仕事を通じて、幸せとは何か?をずっと考え続けたいし、幸せになるための方法を生み出し続けたい、そして多くの方が知らないその真実を、みんなに伝え続けることが、最終的にはみんなの幸せにつながるということ。みんなに込められた意味、そのどれもこれもが彼らから教えられた真実です。
ここに頼られている自分がいます、その状況や場所は、自分にとって幸せの場所に違いありません。しかし、その頼られている状況に甘えて、自分だけが幸せであり続けることは彼らを不幸にすることです。頼られているからといって、人を傷つけていいということにはなりませんし、頼られているからといって相手を軽く扱っていいということにもなりません。頼られているからこそ、なおいっそう話を聞き、情報を提供し、自らの意思決定によるその人らしい人生を歩む道程を応援し続けなくてはなりません。時に自信を無くし、時に落ち込み、脱落したくなる時もあるでしょう。そんな時こそ、彼らを信じるのです。彼らを頼るのです。そこに「みんな幸せになりたい」が出現するのだと思います。2.基本的理念
昔(30年ほど前)…。
手首を血だらけになるほど噛み、腹部を引っ掻き、頭を壁にぶつけ、扉を足で蹴り倒す。その方の前で明らかに僕らは無力だった。傷を治すためにアメリカンフットボールのヘルメットをかぶり、特製のプロテクターで手首を覆った。そんな対症療法が僕らの仕事の慰めだった。
ガラスを割り、幼い子の手指を骨折させ、服を破り、食事を壁に塗りつける。やはりその方の前でも僕らは無力だった。彼に情熱をこめて人生を説くことが最高の支援であると勘違いをしていた。バランスを欠いた情熱は、専門家として欠いてはならない支援を客観的評価するという姿勢を麻痺させていた。掃除がイヤだといっては泣き叫び、食事が待てないといっては泣き叫び、じっとして居たくないといっては泣き叫ぶ。その方の前でも僕らは無力だった。雑巾がけができるようになり、食事が待てるようになり、じっとしていられるようになった先に、何があるのか、それを指し示すことができないまま、できるようになることだけに目標が置き続けられた。
しかし……。
僕らは今『物語としての人生』という行動理解の方法と『向かう心の支援』という係わりの方法を手に入れ始めている。『物語としての人生』とは、その人の人生を丸ごと理解しようという方法であり、『向かう心の支援』とは、その職員にとって、いちばん身近な人、それは例えば家族や友人だが、その方に向ける気持ちと同じような気持ちを、たとえどんなに重い知的障害のある方であってもきちんと向けてみるという支援の方法である。
叱責しなくても、お説教しなくても、訓練しなくても、取り上げることをしなくても、おそらく与え続けることによって、お互いに<幸せ>になれる方法を手に入れ始めている。 それは、「I am OK, You are OK」という支援である。ちょっと考えてみて欲しい。怒鳴って相手を指示通り動かした時、怒鳴った本人は、おそらくご満悦だろう、やっぱり自分は指導力があると。これは「 I am OK」の状態である。しかし、怒鳴られたものの立場になれば、これは不快な状態であり、たとえそのときは言うことを聞いたにしろ、心の奥には、恨みと憎しみが沈殿している。これは「 You are not OK」の状態である。「I am OK, You are not OK」では、お互いに幸福にはなれない。これは強者のみが幸福を享受できる方法である。さらに考えれば、怒鳴って手に入れた「 I am OK」は、本当に幸福の場所にその人を誘うことができるのだろうか?40年、怒鳴り続けてたどり着いた場所は、おそらく荒涼とした孤独の地だろう。ぼくらが目指すのは明らかに「 I am OK, You are OK」に通じる道である。その場所はおそらく誰もが「共にいる」ことを感じることができる空間であるはずだ。伝えたい何かが伝わらないとき必ず<服を脱ぐ>彼女がいた。そんな時、僕らは決して<服を脱いじゃいけません>とは言わない。頭ごなしに<服を脱いじゃいけません>と伝えることは、究極の伝達の手段として、自分のプライドを捨てて、服を脱ぐことを選択せざるを得なかったその人に、<あなたは自分の想いを回りの人間に伝えようとしてはいけません>ということに等しいからだ。
人間は、伝えるために生まれてきている動物だ。皆さんは知っているだろうか、生まれたての赤ん坊の2つの目、その焦点距離は50cmのところにあることを。その50cm、母親が授乳のために赤ん坊を横抱きにし、その赤ん坊の向けられた視線の先、50cmのところにあるのは母親の顔なのである。生まれたときには、すでに赤ん坊は母親の存在を、つまりは他者の存在を遺伝子の上に乗っけて生まれてきているのである。これはコミュニケートを前提に生まれてきていることを如実に示す真実である。「どんな方法でもいい、その想いを伝えていいんだ」これが支援者の第一歩目のスタンスである。
眠れなくて一晩中歩き続ける彼が居た。そんな時、僕らは<今日は眠れないんだね、一緒にいるから大丈夫だよ>と要求されるまま手をつなぎ、できるだけ一緒に歩いた。なぜなら彼には起きている権利があるからだ。
人間には二つの自由がある。それは「選択の自由」と「失敗の自由」である。ここでは「寝るか寝ないか」、そして「寝なかった時の苦しさ」を指し示すのであるが、全てが自由の上に保障されなければならない。犯されたくない自由は、まずは人間の生理的要求に根ざすものである。それは「睡眠」「排泄」「食事」である。いつ寝るのか、いつオシッコやウンコをするのか、そしていつ食べるのか、それが命令形の中で、「寝る時間だぞ」「オシッコ、ウンコへ行く時間だぞ」「食事の時間だぞ」で支配されれば、そこはもう塀の中と同じである。「選択の自由」が与えられて、初めて人間は悩むことができるのであり、悩むことが人間を大きくするのである。また、悩んだ末の答えがたとえ失敗につながっても、それによって生じた自己責任が、人間を大きくしていくのである。知的障害者には無理だろうって?それは実践家が口にすべき言葉ではない。実践して確認すれば、どんなに障害が重い方であっても、自己選択と自己責任の道は拓かれていることが実感できるだろう。
かれこれ20年間、目を硬く閉じ暮らし続ける彼女がいた。そんな彼女に僕らは<何もかも一人でやろうとするなよ、ここに僕らがついている。やりたいこと、助けて欲しいこと何でも言って欲しいなあ>と伝え続けた。だって<幸せ>はたった一人が我慢することによって作り上げるものじゃないから。
自分から好き好んで、入所施設に入ろうなんていう方はほとんどいない。ましてや明星学園は児童入所施設であったから、メンバーさん方の入所は5才、6才である。そんな子どもの年令で、「ぼくは知的障害を克服するために、早く親元を離れて訓練に励むんだ。」なんて絶対思わないだろう。特別養護老人施設に入所する高齢者の方々が「私が特養に入所しさえすれば、息子や嫁にこれ以上の迷惑をかけなくてすむ」と考えるのと同じように、目を閉じ続けながら彼女は、「私さえ明星学園に入所すれば、私さえ明星学園で我慢すれば、お父さんやお母さんにはこれ以上の迷惑はかけなくてすむ、お父さんやお母さんにはもっと幸福になって欲しい」と考え続けていたのだ。
僕らの支援の方法は、まずもって利用者の方々の“本当の気持ち”を大切にするという意味で『お心主義』である。しかし、多くの方々が発語をコミュニケーションの手段として持たない重い知的障害のある方々との係わりの中で“本当の気持ち”に到達する術は、生半可な道じゃない。
本当の気持ちが伝わりさえすれば、<いつかきっと、いつかきっと変わるから>と。
適切な支援さえあれば、<誰にでも自分を変えていく力が自分の中にあるのだから>と。
僕らは絶え間ない行動観察を続け、行動理解のための仮説を同時並行的に立ち上げ、仮説検証のための実践を“本当の気持ち”にたどりつくまで繰り返す。決して途中で挫けないタフな気持ちと絶対にうまくいくと信じる楽天性を武器にして。この方法を明星学園では「名探偵コナンへの道」と称す。一方、アメリカ自閉症協会の言葉では、「
Solve the Puzzle!」という。意味するところは全く同じである。
そんな僕らの方法-お心主義-を支えているのは、『抱っこ法』『(乳幼児)精神分析』『TEACCHプログラム』『臨床動作法』『マカトン法』-療育の5本柱-から得た知見と哲学である。
『抱っこ法』からは、健常(定型発達)といわれる我々と重い知的障害がある方々とが人間的にはなんら変わらない存在であること、パーフォーマンス(できるorできない)という点を取り上げれば健常(定型発達)といわれる我々が圧倒的に優位(例えば1+1=2についての理解の方法、スピード、箸を持つといった能力の獲得等考えてみればいい)であるけれど、情緒的な側面(悲しい、悔しい、心配だ、不安だ、怒り、嬉しい、楽しい、やさしさ、思いやり等)から考えれば全く同じだということ、そして時には我々よりも豊かな感受性を示すことがあることをいつも教えられている。僕らの支援は、「癒し」と「励まし」のバランスの上にある。それは「母性的な係わり」と「父性的な係わり」と置き換えることもできる。同じ方への係わりが、その重点を癒しから励ましへシフトする、また同じ方への係わりでも、癒し担当と励まし担当とに職員の役割を分化させる。横に縦に、「癒し」と「励まし」が錯綜しながら支援は展開していくのである。
『(乳幼児)精神分析』からは、自分らしい人生を歩むためには主体的な動きこそが大切であり、その主体的な動き(自己選択、自己決定)を見守り、保障することが肯定的な自己像を形成していくための必要条件であること、また人間の理解とは、一つ一つの行動の積み重ねとしてではなく、複雑に絡み合った人間関係の集合体として、今まで生きてきた人生丸ごとを説明できなければ不可能であることを教えられた。また、言葉を上手に繰れない知的障害、自閉症の方々にとって、身体の変化、行動の変化を通じて表現される様々な伝達内容の理解、これを現象学的な理解というが、これこそが、彼らの本当の気持ちを理解するのに欠くことができない方法であることを教えられている。
『TEACCHプログラム』からは、闇雲に我慢することや待つことが、どれだけ人間の心に心理的な負荷をかけ、不安や焦燥感を増幅させるのか、そして、同じ我慢するにしても、先の見通しを持って我慢することが、いかに人間を落ち着かせ、穏やかにし、適応力を高め、安心させるのかを学んだ。このTEACCHプログラムの主要な概念である「構造化」の手法は、簡単に言えば「その人にとって、わかりやすく伝えること」であるが、支援のスタートはまずそこにある。未開の、初めて訪れる外国の地のような何もかもがわからない場所に住み、暮らすような不安感、孤独感の中では、決して豊かな暮らしなど成立しないのだから。
『臨床動作法』からは、待つこと、信じることの大切さを教えられている。期待に応えようと頑張りたい主体が、今、目の前にいるという実感を手に入れることができる。動作課題に向うときの係わりには、日常的な支援の凝縮があるのである。「こうしてみない?」「できるかな?」「そうか、難しいのか」「そうか、イヤなのか」「そうそう、頑張れるじゃないか」、動作課題を遂行する時のこのようなやりとりは、日常的な支援へ般化させることができるのである。いうなれば、動作法的支援というわけだ。僕らは、絶対できるようになると、どこかで確信しながら、そのアプローチの方法は様々であることを動作法を通じて学び取ることができる。たとえ重い知的障害があっても、何かを少しでもやり遂げたいと思っている主体なのであることを、目の前で感じることが、個として尊厳する道にも通じる。
『マカトン法』は、伝わるのなら何でもいいじゃないかというコミュニケーションの基本を僕等に教えた。伝わることの嬉しさを教えてくれた。
写真カードを多用するようになって、現在ではその必要性が減じてはいるが、覚えていれば、つまり記憶している頭だけ持参すれば、支援としては成立するこの支援方法は、施設では常に有効である。
さあ、ここで我々の職業の専門性について考えてみたい。
今<専門性とは何か?>と問われて、こう答えるとしよう。
『個々の障害特性を理解しながら、その方の主体的な生き方を保障するために、彼らの<本当の気持ち>を理解することのできる方法を獲得し、またそれを検証する実践ができることである。』と
この専門性の定義には、二つの側面がある。一つは、<本当の気持ち>を理解するという豊かな共感性、センスである。そしてさらに一つは<本当の気持ち>がわかった時に、その願いをかなえることができるような支援が実践できるかという行動力である。共感性、センスはもちろん大切だが、我々は後者の実践力をより大切なことだと考えたい。そしてこの実践力は「学び」によらなければ身につかない。
「私たちの仕事は、昨日と違うその人を発見することですよね」これはある先輩職員が残してくれた言葉である。あるいは「僕らの仕事はホテルの客室係(今風であれば、コンシェルジェというところか?)と同じですよね。これから夜勤に入ります。何かご要望、ご不満の点がありましたら、すぐにお申し出下さいですから」これもある先輩職員が残してくれた言葉である。いずれも僕らの仕事の専門性を鋭く言い当てている言葉である。「昨日と違うその人を発見する」ためには、その方にまずもって関心を寄せなければならない。細かな観察能力も必要である。関心を寄せるということは他ならぬ共感するための第一歩の姿勢である。
また、僕らが提供する実践は、必ず「快」を伴わなくてはならない。僕らの仕事は、対人間相手の仕事である。これを感情労働と呼ぶ。感情労働者は「快」の提供者であり、サービス提供者である。叱ることでさえも「快」を目指さなくてはならないのである。誰が目指すにしろ、困難な道だろう。40年、この仕事に従事しても、答えは見つからないかもしれない。しかし、感情労働に従事している以上、目指さなければならない道なのである。(その答えのヒントは、罪を憎んで人を憎まずという言葉の中にあることはわかっているのですが…。)
僕らの実践はどこへ向かおうとしているのだろうか?<本当の気持ち>を理解し続けた先には何があるのだろうか。それを考えるヒントは自分自身に次のように問うてみたところにあるのではないかと思う。それは、「幸福ってなに?」「生まれてきて良かったと思う時はどんな時?」「生きがいを感じる時ってどんな時?」「自立ってなに?」「自律ってなに?」というような質問群である。
どの質問にも、おそらく正解はない。答えは人それぞれである。しかし、誤ってはならないのは、この質問の答えを出そうとする時、健常(定型発達)といわれている我々と重い知的障害がある人とを分けて考えてはならないのである。質問はみな、人間の営みに関することばかりである。重い知的障害のある方々だって人間であるのだから、この答えは人間全てを説明するものでなくてはならないのである。 それは、今まで自分が培ってきた常識を一旦捨てるところから始まるのかもしれない。僕らの常識は、重い知的障害の方々を仲間に含めることをしない世界で作られたものである。僕らは「お心主義」を武器にしてこの仕事にたずさわるとき、この重い知的障害ある方々を仲間に入れて常識を作り直さなくてはならないのだ。
僕らは重い知的障害のある方々にとって行動全て(自傷、他害、パニック、下痢、てんかん発作、便秘、反復強迫行動、不眠、断続眠、自律神経症状……)が発信だと考える。これだって新しく手に入れた常識だ。弱い立場の人間は、もちろん重い知的障害がある方々を含めて、自分はみんなに迷惑をかけている、自分は駄目な奴だ、自分が生まれてきたばっかりにお母さんは苦労している、自分ひとりさえ我慢すればみんな幸せになれると考えている。こんな事実も新しく手に入れた常識である。そして大人は、自分のことを自分で主体的に伝えることができる人である。つまり、『そのひとに このことを わかりやすいかたちで 直接 伝える』ことができる人である。気持ちをわかってくれない職員に対して怒りを感じているのに、それをガラスにぶつけてしまう人、自分の手を噛んでしまう人、これは大人じゃない。職員に怒っていれば、職員を叩けばいいし、噛めばいい。その方がずっとわかりやすいし、直接的だ。
見捨てられるのが恐くて、イヤと言えないその人も大人じゃない。ニコニコ笑って、イヤなことをしていたんじゃ、誰もそれをイヤだなんてわかってくれない。ちっともわかりやすくないじゃないか。3日も4日も経ってから、前のことを怒りだしても、そんなことは誰も気がついてはくれまい。本当の気持ちはできるだけそのときに表現した方が、自分もわかりやすいし、回りもずっとわかりやすいのだ。
嬉しかったや楽しかったは、人に伝えやすい気持ちである。ところがそれに比べて、苦しいことや挫けたい気持ち、頑張りたくない気持ち、そして主観的にはわがままだと思う気持ち、そして助けて欲しいという気持ちは伝え難いものだ。自分の弱みを見せることだからね。でもこれが上手にわかりやすいかたちで伝えられてこそ『幸福』ってやつじゃない?
3.具体的実践事項
⑴穏やかな暮らしと主体性の保障
◆「イヤ」を受け止めて
一人一発達遊び、動作法、抱っこ法、音楽リズム、感覚機能等、いずれの日課活動場面においても、さらに食事、排泄、入浴等のADL支援場面においても、彼らの「イヤ」をしっかり受け止めることにより、穏やかな暮らしの基盤としたい。それが他でもない彼らの主体性を保障していく第一歩である。
イヤなことは日課や活動だけではない。感覚障害(味覚、触覚、聴覚等の過敏等)に起因する訓練や我慢や慣れでは、とても克服しようもないイヤなことも、この世の中にはいっぱいだ。行動障害を示す彼らの多くは、我慢できないのは自分が悪いのだと、自分を責めながら、イヤなことをイヤと思わないような心理的な努力をしながら、息も絶え絶えにここまでたどり着いている場合が圧倒的に多い。なにを伝えても責められない環境を整えながら、どんな小さな彼らのイヤでさえも認めていく努力が信頼関係を築いていくのである。
◆ああしたい、こうしたいに寄り添う
ただ「イヤ」だけだった自己主張が次第に目に見える形の要求(デマンド)をとるようになってくる。その1つ1つが最初はわがままであるかのような様相を呈するが、ノーマライゼーションという視点から客観的に見ると、当然の暮らしの姿、幸福を求める姿であることが多い。施設の限界、集団生活の限界を知りながら、少しでも工夫をし、その限界を超えていこうとする努力を積み重ねながら、一つ一つのデマンドに寄り添っていきたいと考える。そのデマンドに寄り添う姿は、重い知的障害の方々に発信の自信を与え、間主観性(私が大切にしているものを、あなたが知っているというとを、私は知っている)を育て、やがてかたちとしては見えにくい本当の幸福の形(ニーズ)を発信していけるエネルギーになっていく。
その目標の姿をいまインパクトターゲットイメージと名付けよう。(完全にパクリですが) あれ食べたい、これ食べたいから始まった要求(
What)が、あの店で、この店で(Where)に広がり、それが認められれば、今度は関心がオシャレに向かう。
一方、お母さん、私のことを好きですか?の解決が終われば、お父さん、私のこと好きですかに、そして兄弟、お嫁さん、そして甥や姪までにその関係が広がっていく。途中に夫婦仲良くしてねなんていう要求までを伝えたい方までいる。
お父さん、お酒飲んで欲しくないなあ、仕事無理してるんじゃない?身体、大事にしてねと心配する方まで出てくる。
ぼくの障害なおりますか?なんて聞く方まででてきて、本当に僕らを困らせるのである。
インパクトターゲットイメージは千差万別、数限りないのである。
◆折り合いをつける
実は人間関係というものは、「ありがとう」とか「ごめんね」とか「がまんしてね」とかを交わしながら、ゆずったりゆずられたりして、一人一人を大切にすることによって成り立つものだ。そして、ゆずられた経験なしには、人は心のそこから何かをゆずることは難しいものだ。しかし、強い立場のものは、知らず知らずのうちに良かれと思って押し付け、弱い立場のものは、見捨てられるのが恐いが故に我慢していく構造は、この知的障害の方々との関係において、いとも簡単に成立してしまう現実がある。職員は、その強者の論理の側にいることを自覚しながら、どれだけ誠実に「ありがとう」と伝え、どれだけ真剣に「ごめんなさい」と言えるかが「折り合い」の出発点である。
◆「ねえ、どうする?」の意味たった一つの自己選択でもそれが人生を変えることがあることを今僕らは知っている。いかなる場合も、排泄でも食事でも、相手の発信がはっきりしてようが、してなかろうが、いつでも僕らは『ねえ、どうする?』なのである。それが僕らの彼らを大切にする姿である。今のあなたの行動を、私は今○○のように理解しましたが、それであなたはどうしますか?というキャッチボールの連続が支援になるのである。
伝える方法はなんでもいい。視線でもいいし、身振りでもいい、もちろん発語でも、絵カードや写真カードもいい。
◆チーム支援力と個別支援力
1. 支援力を「チーム支援力」と「個別支援力」に分けて考えることができる。
2.この二つは、「個別支援力」がいくら高くても、「チーム支援力」がない職員は、現場には、大きく負の効果を与え、「個別支援力」に劣っても「チーム支援力」が優れている職員は、現場に正の効果を与えるという関係にある。前者は現場にとっては、必要性が低い職員であり、後者は必要性が高い職員ということになる。
3. 「個別支援力」の基礎を支える要素は、支持的な関係をつくることができる力である。それは怒らない、叱らない、説教しない、怒鳴らない、態度であり、常に「どうしたの?」と寄り添うことができる態度である。支配性、攻撃性の含まれた前者の関係性は、明星では必要とされていない。
4.一方「チーム支援力」を支える基礎的な要素は、助けて、手伝って、お願い?、いいよ!まかしておけ!と伝えあうことができる関係をつくることができる力である。できたこと、まだできてないことを明確に伝えあうことができる力とも言える。「なんでやったの!私の領分を侵さないで!」は子どもの態度であり、手伝ってもらって「ありがとう」こそが、大人の態度である。
5.また一方で、与えられて役割(役職、係、担当領域等)を責任をもって果たす力が、その基礎を支える。
6. 「チーム支援力」において、まず大切なことは、「おねがい」「ありがとう」が行き交う相互支援ができることである。「妬み」「恨み」「羨望」「嫉妬」「つっぱり」「自己防衛」などの気持ちがうごめいている人は、この相互支援ができません。そんな気持ちが強くないか、よく自分の気持ちを自己分析することが必要である。
7. 次に大切な「チーム支援力」要素は、「情報の共有力」である。「相互支援力」を支える要素にもなっているが、➀日誌に自分の実践を成功、失敗に係わらずて記述することができる(心の日誌に書くのではなく)、②連絡帳に必要なことを記述することができる、③いわゆる報連相を上司、同僚間で実施できる、④日誌、連絡帳にしっかり目を通し、自分の情報としてキャッチできる、などの力のことである。
8. 係だけしか知らない、上司だけしか知らない、担任だけしか知らない、というような情報共有のできない姿は、その職員のコミュニケーション能力の問題もあるが、無意識的には、自分しか知らない、自分に聞かなければわからないという状況を作っているので、結果として。その方の支配性の課題になっている。チームとしては迷惑にしかならない。
9.「個別支援力」において、まず大切なことは、「支持的な関係をつくることができる力」である。「圧の関係」「上下の関係」を作っていないか、常にチェックが必要である。説教したい気持ち、指導したい気持ちが湧いているときは、すでに「圧の関係」に陥っている。「○○してはいけません」と言った時には、すでに「上下の関係」である。ここにも、無意識の支配性の問題がうごめいている。
10.次に大切な要素は「相談力」である。「圧の関係」の中で、本当の気持ちは言えないから、担任とメンバーさんとが「圧の関係」にあることは、相談の答えが、対担任と対他の職員で異なるときにはっきりする。また、外出のパターンがいつまでも同じ、広がりがないという時にも「圧の関係」があるのでしょう。「圧の関係」という中では、職員のあるいは担任の顔をうかがって生きる、という処方箋を身につけるだけで、人生にとって有用なことは何も得ることができない。
11.「相談力」で一番大切なのは、その方の発信している「YES」「NO」を見分けることができる力である。「はい」という返事や「うなづき」を単純に「YES」と理解するのではなく、また「逃げ去る」「返事がない」姿を単純に「NO」と判断しない力である。○✕カードや、表情カード、までを使いこなすまでには、経験や向上心が必要であるが、せめて外出などの相談、カード選択が確実にできる、快なのか不快なのかを捉えることができる観察力は基礎的な力として獲得すべきことである。
12.「支持的な関係」があるからこそ「相談力」が生きる。テクニックとしての「相談力」があっても、「支持的な関係」が基礎になければ、嘘っぱちの「相談力」ということになる。
13. 繰り返しになるが、個別支援力の要素を再確認する。努力すれば、誰にでもできる支援者としての姿勢である。 「強い口調で話さない」
強い口調→高刺激→怒られている感じ、大切にされていない感じ、わかってもらえない感じ、自分の考えを言えない感じ、有無を言わせない感じ等
【具体例】
・大きな声(ボリュームが大きい)
・紋切型、決めつけた言い方
・対話をさえぎる言い方
・命令口調
・だけど、などと必ず反論する言い方‥
etc
⑵一人前の保証(一人の大人として扱う)
◆頭ごなしでは関係が育たない
例えば「テレビばかり見てないで宿題をしなさい」と言われたとき、人間関係には、「全くうるさいなあ」と思ってしまう関係と「そうだな、もっともだな」と思える関係があるのは、想像できるだろう。自分を否定し、認めてもらえない関係では、指示がうるさく感じ、見守り、認めてくれている関係では、指示がすんなりと入るのである。 相手の発信を受け止めようとせず、いきなり自分の発信を押しつける関係では、良好な信頼関係は育たないし、相手の存在の全否定につながってしまうのである。まず受け止めて、それから自己発信する。それが大人の関係である。
◆お小言はもういらない
訓練やしつけという名のもとに、彼らはどのくらい叱られたことだろう。「そうしちゃいけない」と伝えることは、「そんなことをしているあなたは駄目な人です」あるいは「そんなことをいつまでもしているあなたは嫌いです」と実は伝えることだ。
叱って効果があったか?叱って行動変容があったか?冷静に考えてみればいい。ほとんど役にたっていないことが解る。十年やって行動変容が起こせないのなら、二十年やって行動変容が起こせないのなら、その方法は間違っているのである。
さらに、誰でも自分の人生を振り返ってみればいい。小学生高学年頃、中学生頃から「うるさい、このくそばばあ」と母親のことを感じ始めた自分を思い出すことができるだろう。 彼らだって同じである。
◆いつでも「なあに?」
知的障害の重い方々にとってその行動全てが発信活動である。表現すること、それが伝達である。
彼らは、常に相談されるべき、意思を確認されるべき、情報を提供されるべき主体的な人生を歩む一人の人格である。それをないがしろにすることなく一つ一つの実践に確実な検証を行っていきたい。自分にとって一番親愛な人間に向ける想いと同じ想いを彼らに向けることのできる職員でありたい。
◆重ね合わせる気持ち 僕らの仕事は、知的障害といわれる彼らと健常といわれる僕らとの違いを探すことではない。目が二つ、鼻が一つ、口が一つと同じレベルで、お心の同じところを探していこうとすること、それが仕事である。例えば夜眠れないとき、まず自分が夜眠れないときはいったいどんなときなのだろうか?と問うことから共感の出発点としたい。それがわかったとき、初めて相手の気持ちと重ね合わせてみるのである。
◆情報提供と説明責任そして相談すること
いくら自己選択、自己決定などといっても、それには豊富な情報提供とわかりやすい説明があってこそ可能である。
外食のメニューの決定、買い物の内容、訪れる店、帰省日、帰園日、帰れない理由、約束の日、約束が変更になる理由、旅行の行き先、日程、……。あらゆる機会において、情報の提供と説明に労を惜しんではならない。
そしてそれは、とりもなおさず相談することである。情報を提供すればいい、説明責任を果たせばいいというだけではないのが、コミュニケーションである。言いっ放し、伝えっぱなしでは、結局はやりとりの能力は育たない。常に最後は、それであなたはどう思うか?である。
⑶エンパワメントを育む
◆ポジティブメッセージシャワー
個別的な作業能力、障害特性に合わせた課題、生活場面を用意することによって、一人前を保証し充実感を味わえる時間、瞬間、場を提供したい。成就感の積み重ねこそが、あるいはそのポジティブメッセージこそが、バッドセルフイメージからポジティブセルフイメージへの転換を創造し、未来を期待することのできる人格を生み出すことができる。
さらに、ポジティブメッセージはこれにとどまらない。「この服似合うね」「頑張っているんだね」「笑っている顔、素適だよ」……。どこでも、いつでもポジティブメッセージは転がっている。
◆お心を反射する(お心の言語化)-意思形成支援
常に僕らは、彼らをどのように理解したのか、その行動をどう受け止めたのかを彼らに伝え続けなくてはいけない。自分を解ってくれようとしている他者の存在を伝え続けなくてはいけない。それは言語化から始まる。
さらにその中でも特に重要なのが、否定的感情の言語化である。羨望、怒り、寂しさ、わがままな気持ち…、これらの感情を職員が言語化することにより、否定的な感情を持っていいこと、感じていいことを安心とともに学習していくのである。そして、それがその人のあるがままを認める姿へと通じていくのである。
◆お心主義辞典の作成
臨床現場から得られた知見を基に、身体症状、行動等から汲み取ることができる本当の気持ちをリスト化し、まとめ、お心主義辞典を作成する。
◆その人語辞典の作成
支援者は、メンバーさん方それぞれが示す、最初は訳がわからないような行動や発語に、経験やエピソードの積み重ねの中で、一定の意味を付与していくことができなければならない。支援者は代弁者の地位に止まるのではなく、通訳者として最後は機能しなくてはならない。主体は彼らにあるのだから。厚い辞典が用意できれば、その方とのコミュニケーションがいかに豊で、スムースなのかをそれは教えているし、貧弱な辞典であれば、その方のコミュニケーションが低レベルにと止まっていることを教えている。
⑷日中活動の充実(社会参加と豊かな余暇活動)
◆作業種の創出と外部製品販売
既製品に当てはめるような作業種の提供ではなく、常に個別にその人にあった作業種を提供したい。常に新しい作業種を開発していくんだという気概が欲しい。
◆買い物、外出
本人の主体性を十分に生かした買い物、外出活動は、それ自体が表現であり人生の物語の縮図である。施設内では見られない姿を観察、伝達しながら豊かな生活のステップとしたい。
◆アート活動
様々な画材、手法を活用して、自己表現としてのアートに挑戦したい。幸いにして有能な二人の外部講師に恵まれている。支援職員も丸投げ意識ではなく、少しでも技術を盗むことができる場である。もちろん、一人では十分な活動ができない方が多いわけで、支援職員との共同制作という形でその表現欲求を実現させたい。
また、完成した作品は表装などを施し、地域の展示会などに積極的に応募したり、専属の展示場所を開発したい。
◆スポーツ・レク活動
外部講師を招き、フライングディスクを中心に、踊り、ニュースポーツなど新しい体験の場所としたい。
◆アロマセラピー
「触れる」という対人関係の最初の愛着のスタイルをアロマを媒介しながら、その必要性を確認していきたい。
◆音楽療法
各クラス、その特性に合ったプログラムで、外部講師により実施する。その場を楽しむだけでなく、目標をもって活動に取り組み、自己表現とエンパワメントの時間でありたい。
◆わくわくハピネス
かざこし子どもの森で実施される企画に有志の参加で出かける。
◆アニマルセラピー
「猫カフェ」「乗馬」「長野県愛護センター来園」の機会を設ける。
◆マイチャンネル
テレビを見ない方々は、テレビに興味がないのではなく、自分の好きな番組をやっていないだけなのだ。僕らは、個々のニーズに応える形で様々な手づくりビデオの製作に挑戦したい。
お出かけビデオ、買い物ビデオ、街角ビデオ、乗り物ビデオ、お家ビデオ、行事ビデオetc.
◆スペシャルオリンピックス活動 飯田女子短期大学の体育館、テニスコートをお借りして、飯田会場のプログラムの運営を中心的に担い、明星からもアスリートの参加を進める。
◆オン ステージ!
日常活動の発表の場として、アート夏フェスタ、明星きらめき祭でステージを用意する。支援職員も協力しながら新しい自分の発見の場所としたい。
◆スポーツ観戦ツアー
松本山雅、信濃グランセローズを中心に、メンバーさん主催という形で観戦ツアーを企画していく。
◆クラス旅行
小グループによるクラス旅行を実施する。必要ならば一人旅行もあり。担任との人間関係を構築するのにまたとないチャンスの場である。また、多くの時間をともにすることで支援職員にとっても発見の場であるに違いない。
◆自治会活動
本園においては「しらかば会」、GHにおいては「なかよし会」を組織して、それぞれの日常場面における課題(暮らしへの要望)、レクレーション活動(外出、料理、忘年会、新年会等)等について思いを述べることで、主体的な暮らしを創出する一助とする。
⑸家庭との連携
◆ケースワーカーとして
メンバーをともに育む存在として、家庭との連携は欠くべからざるものである。家族の一員として、その家族のライフステージの変化にはともに参加していく必要があるし、遠く離れていてもいつでも自分のことを考えていてくれると安心することができる関係を構築していかなくてはならない。職員一人一人がケースワーカーであるつもりで家庭との連携強化を図りたい。
◆かけはしとして
電話の利用、連絡帳の活用、記録ビデオの利用そして帰省のかたち等を通じて、施設という場所において彼らが何を考え、何を願い、何をしているのか、また本人たちの伝えられない思いとは何かを彼らと保護者のかけはしとして機能していきたい。母親から父親へ、夫婦の間から兄弟間へ、どんどん広がりを見せていく彼らの人間関係全てに、自分たちはかけはしとして機能していくのである。
⑹地域に息づく施設として
◆ボランティアとの連携、協力
ボランティアの方と連携、協力して、キャンプ、買い物、電車に乗る等のレクリェーション活動を充実させる。特に障害の重い方々の外出については、小集団活動を基本として活動しながら(おもしろプラン)彼らの本当のニーズを探り続けていきたい。
◆小中学校・高校との交流
旭ヶ丘、緑ヶ丘、飯田東中学、伊賀良、竜丘小学校の児童生徒の皆さんと、行事、交流会、アルミ缶収集、総合的な学習・職場体験の受け入れ等を通じて交流を図る。それぞれの学校には、CAN&CAN通信、WHITE CANVAS、輪&隣&Linkのような広報紙を作成し、情報のフィードバックと発信を行っていく。
◆ふれあいパートナー
保護者の来園が困難な方には、行事当日、ふれあいパートナーと称して国際ソロプチミスト等のボランティアの方々にご協力を頂き、保護者代わりをお願いする。
◆飯田高校ブラスバンドふれあいコンサート
年1回(3月下旬)、明星学園メニューを用意したコンサートを開催する。
◆地域参加
旭ヶ丘中学校文化祭(かやの木祭)等に出かけ地域参加の一場面とする。
◆作業製品の販売
市役所、合同庁舎、明星保育園の販売を中心に、作業製品の販売を行なう。製品作りに携わるメンバーさん方が販売員として参加する。また、新しい販売箇所の開拓にエネルギーを注ぐ。
⑺知的障害福祉の拠点として
◆臨床動作法飯田月例会
臨床動作法飯田月例会を中心にして、動作法、動作法的な係わり方、重い障害がある方々の主体性について研究、啓蒙に努める。
◆飯伊圏域合同ケース研究会
飯伊圏域合同ケース研究会を主催し、積極的に実践を報告していくとともに、地域への啓蒙を図る。
◆療育研究会のオープン化
職員の自主研究会である療育研究会をできるだけ地域オープン型の開催とし、研究、啓蒙を図る。
⑻高めあう存在としての職員集団の在り方を求めて(別紙スーパービジョン体制参照)
◆クラス支援内容研修
必要に応じて計画、実施し、支援内容の統一と支援技術の向上を図る。
◆療育研究会
職員の自主研究会である療育研究会を組織し、福祉、心理学などの研修を行う。
◆抱っこ法セッション
「抱っこ法」のセッションの実践を通じて、心を癒すこと、誰でも人生には背景があること、自分たちの身は、叩けば埃が出て来る身であること等を実体験し、これからの支援内容の在り方について研修を深める。
◆介護技術研修
メンバーさん方の高齢化、重度化に対応した介護技術の習得を目指す。
◆言語聴覚士(ST)との連携
特に食事時の姿勢、食材の形状などの指導を得て、快適な食事、誤嚥・肺炎の予防、口腔ケアに努めたい。
◆理学療法士(PT)との連携
特に車椅子の使用、移乗方法、、歩行時、就寝時における姿勢、支援職員の介護姿勢などの指導を得て、褥瘡予防、快適な介護、機能の維持に努めたい。
⑼健康の維持増進と安全の確保・事故防止
◆気安さと気楽さ
常に緊張感のある支援を展開し、事故防止に努める。職員間が気安いのは良いが気楽な関係は禁物である。現在までの事故発生例に分析を加えることによって事故防止体制の徹底を図る。
◆関係機関との連携
関係医療機関との連携に努め、適切な服薬について常に検討を加えていく。また、日頃の健康管理にも十分に注意し、血液検査、脳波検査などの計画に基づいて確実に実施していく。
◆個別的な配慮
単なる西洋医学的な対症療法的な対応に留まることなく、サプリメントやプロテインなど、その方の立場に立った対応を研究していく。
⑽個別支援計画 豊かな人生のための個別的QOLリストの作成(別紙QOLの7分野参照)
メンバー個別に「豊かな人生のための個別的QOLリスト」を作成し、生活の豊かさ、充実度をチェックしながら今後の暮らしの在り方に常に検討を加える。
(別紙QOLリスト参照)
⑾個別支援計画 ほっと安心、ふっと嬉しい日常生活支援ガイドの作成
メンバー個別に「ほっと安心、ふっと嬉しい日常生活支援ガイド」を作成し、忘れてはならない支援の方法、心づかいの内容を明確化していきながら、自らの係わりの質の向上と発展を図る。
⑿ケース検討集「ここまで歩いてきた大切な道」の作成
職員会議等で作成したケース検討資料、職員会議でのディスカッション、スーパービジョンの内容等一年間の職員とメンバーさん方の成長の証として作成する。後輩職員に多くの示唆を与える冊子となるであろう。
⒀パートナーズガイドの作成
交流会、ふれあいパートナー、実習生等の方々が、良質のお付き合いが提供できるために、一目見て、そのお付き合いの方法が解るような「パートナーズガイド」を個別に作成する。
⒁ときめきビデオの制作
耀く一枚の写真を物語として並べることで、支援職員が何を目指し、何を考えて支援し続けたのかが浮かび上がるだろう。輝く一枚を撮影できる関係性、観察力、物語を構成することができる力、この制作することで支援職員の得るものは大きい。
⒂ホームページでの発信
「心の窓」ブログを全ての職員の手で作成していくことで、何を発信すべきか?どうしたら読んでもらえるのか?どのようにすれば理解してもらえるのか?を考えていきたい。
⒃広報紙「プリズム」の発行
地域発信型広報紙「プリズム」を地域配布、地域回覧することで、地域の理解と啓蒙を図る。知的障がいの方々が、かけがえのない存在であることを、時間がかかっても伝えなくてはならないのが私たちの使命である。
4.グランドデザイン-10年構想-の進捗と人材確保、人材定着、人材育成
平成29年度、正職員の離職率0%の実現となった。明星学園の歴史からしてみれば奇跡である。これが29年度だけの瞬間風速なのか、これからも長期に渡って維持していくことができる数字なのかが、明星学園の浮沈を握っている。
この4年間、人材確保、人材定着、人材育成のために多くの施策を実行に移してきた。その多くは、全ての職員の知恵と協力と理解によるところが大きい。感謝である。が、これから先、特に人材確保にとってはさらにいばらの道が続くであろうことが推測できる。人材が足らないのは、福祉業界ばかりではなく、全ての産業において人が足らないからである。
つまり、持続的な経営をしていくためには、不断の努力、仕掛けが必要ということになる。
悪条件の中でも必死に支援の質を維持、あるいは高めようとしてきた、また実際に高めてきた明星スピリッツはこれからも健在だろう。好条件の中で、さらに好循環が生まれることが予想される。人材が定着すれば、確実に支援の質の向上が担保されるに違いない。
その中で、私たちは、支援の質を担保しながら事業展開の道を進もうとしている。いたずらに事業拡大、事業展開を進めることは、支援の質を低下させ結果として利用者の皆さんの不幸を生みだすこととなる。支援職員を育てながら、育った人材を核にして次の事業に踏み出すべきだと考えている。
障害の最も重い方々(知的障がいも自閉症も行動障がいも介護度も)の豊かな地域生活が、いま私たちが目指すべきミッションである。一つ一つ、毎年確実に課題を克服し、自らの手に方法論を獲得し、それを糧に次の年のチャレンジに繋げていく、その日進月歩の姿勢で目標にたどり着くしかない。
リクナビを活用した人材確保に30年度は挑戦した。10年後を見据えた人材確保、人材定着、人材育成を図る中で、活気のある、明るい、しかも前向きな職員集団を醸成し、「みんなが幸せになる場所」を全ての職員の手で構築していきたいと考える。
◎◎◎ プロローグ ◎◎◎
「意思決定支援」、ずいぶん耳ざわりの良い言葉です。見かけ上の意思決定支援者は、仕事が増えることが嫌いです。一方、真の意思決定支援者は、仕事が増えることを厭いません。それは、自分が関与しているその人が、自分の支援によって幸せになっていくのを見ることが、この上ない自分の幸せであることに気がついているからです。いざ行かん!真の意思決定支援の道程を!
1.支援現場で必要な意思決定支援
<1>意思決定支援と支援者の姿勢
1.意思形成支援 ~すべては「相談」するところから始まる~
人は、「相談される」という状況に身を置かなければ、こたえようとする、すなわち「自己決定しよう」と思うようにならない生物です。「何か食べたい?」と聞かれるから、思いを巡らし「ラーメンが食べたい」と答えるようになるわけです。そろそろお昼の時間だからと、ラーメンがオートマチックに出てきてしまう状況では、答えようとする気持ち(力)は育ちません。とすると、「相談する」という行為が、意思決定支援のスタートであるということが、まず確認できます。
次に、なぜ人が「相談する」という行為を発動させるかということについて考えてみましょう。それは、「相談」者が、「相談」の対象者には「相談」すれば必ずこたえを返す能力があるだろうと暗黙裡に了解しているからです。つまり、答えが返りそうもないときには、私たち支援者は「相談」しないのです。
ここで、世間の常識が邪魔をします。重い知的障害の方を目の前にして、いったいどのくらいの人が、「相談」されれば答えを返すことができる能力を持ち合わせていると考えるでしょうか。世間一般どころか、知的障害のある人と暮らす家族からも次のような言葉を聞くことがあります。
「うちの子は、何を聞いても分かりませんから…」「食べることくらいしか楽しみがないですから…」「言うことをきかないようなら何回も言って聞かせて下さい…」こうした言葉の裏には、知的障害のある人は、特に障害が重ければ重いほど「相談」に値しないという無意識の思い込みがあるのです。
つまり、どんなに重い知的障害があっても「相談」されれば答えを返す力があるのだと、世間の常識に反して信じることが、意思決定支援ということになります。
このように、意思決定支援は難しいからこそ専門的な仕事なのです。わたしたち支援者の仕事は、世間の常識を翻すことにチャレンジすることです。
2.意思表出支援~表出行動の適切な言語化~
どんなに重い知的障害があっても、「相談」し続ければ必ず何らかの答えをくれるようになります。しかし、そのためには、絶対に必要な条件があります。それは、答え(意思表出行動)を否定しないことです。「オシッコに行こうか?」と誘っても動かない時、その行動は「相談」をしたことの結果として返してくれたこたえ(意思表出行動)ですから否定してはいけないのです。これを否定することは、せっかく出たかたつむりの角を強く突くようなものです。このようなことが日常的に繰り返されれば、かたつむりはもう角を出さなくなってしまうでしょう。動かない時、「そうですね、行くのがイヤなのですね…それではまたあとで誘いに来ますね」、これが相談の帰結としてのやりとりです。自己決定は、決して一人でなされるものではありません。いつでもそれはコラボレーション(共同作業)です。「動かない」という意思と、それを受け止める支援者の「行くのがイヤなのだ」という反射板があって、「動かない」という意思が、自己決定として成立してくるのです。
言葉にならない意思表出行動を言語化すること、そして、そうし続ける日常が、単なる意思表出の段階にあった行動を意思形成・意思決定へ向かわせるのです。
彼らの内面世界を推測であるにしろ言語化することは、彼らがそのようなことを考えたり、感じたり、思ったりしても良いのだという安心感を提供します。「イヤなのですね」と言語化されれば、「イヤって思って良いんだ」と思い、「寂しかったのですね」と言語化されれば、「これが寂しさというやつか、この気持ち、否定しなくても良いんだ」というわけです。
人は、考えたり、感じたりすることは自由です。寂しいとか、苦しいとか、やりたくないとか、できないとか、この野郎とか、やってられるかとか、もう頑張れないとか、もう死にたいとか、たとえ心の中で思ってはいても、言語化して表出し難い感情は山ほどあります。どんなに障害が重くても、そのような心のうちを言語化されることが、「そう思っても良いんだ」というエンパワメントの階段を昇り始める第一歩になるのです。
3.問われているのは支援者の意思受信(チューナー)能力
次に、言葉にならない意思表出行動を言語化していく能力について考えてみることにします。これは、支援者側の問題になります。
「オシッコに誘っても動かない」くらいのことなら、誰でもこの意思表出行動に秘められた気持ちの一つくらいは言語化できます。一番簡単で誰もが推測できる気持ちは、「今はオシッコがしたくない」です。または「オシッコがしたいのかしたくないのかが、(重い知的障害のために)分からない」です。しかし、人の気持ちは、そんな簡単ではありません。同じ「動かない」状況であっても、その理由は様々に推測することができます。
「あなたには誘ってもらいたくない」「今は、面白いテレビを見ているから行きたくない」「今、行こうと思っていたのにうるさいなあ」、さらには「あなたはわたしのことをわかってくれないから、わたしはあなたのいうことはききたくない」という場合もあるでしょう。まだあります。「さっき行ったばかりだよ」「眠いなあ、面倒臭いなぁ」、あるいは、熱がある、下痢をしているというような体調が悪い時には、オシッコどころではないかもしれません。「さっき違う職員に誘われてお便所に行ったばかりです」などという場合は、職員同士で全く連携が取れていない最低の支援状況です。
さらに違う場面で考えてみます。ある入所支援施設で他の家族の面会を見てパニックになった人がいます。世間の常識的な対応ではこうなります。「あなたの面会は今日ではありません。だから今日は、お母さんは来ません。」当然パニックは収まりませんから、「(騒いでいると)みんなの迷惑になるから居室で静かに待っていましょう」となるでしょう。
しかし、これではこの人の気持ちの言語化には全くなっていません。つまりこの対応では、この人の意思形成の機会を奪い、パニックという形であるにしろ、意思表出を図ったエンパワメントの芽を摘み取ったことになります。
「羨ましかったのですね」「お母さんが来ないと寂しくなっちゃいますね」「電話したくなっちゃいましたか?」「次の面会の日を決めてもらいましょうね」「本当はパニックなんか起こして大暴れしたくないんですよね」、これが彼のパニックに対する適切な言語化ではないでしょうか。
つまり、問われているのは、重い知的障害のある人の意思表出能力ではなくて、支援者側の意思受信能力なのです。意思表出行動を受け止める受信機(チューナー)の能力が問われているのです。高性能な広帯域のチューナーを持ち、さらに個々に異なる意思表出行動の背景にある意思に即座にチューニングできる能力が意思決定支援には必要とされています。どんなに重い知的障害の方であっても、必ず相談の答えを伝えてくれています。ただそのこたえにチューニングを合わせることができる支援者が少な過ぎるのです。
ですから、サービス等利用計画作成時等に「ニーズを聞いて下さい」といわれた時、「しゃべることができない人はどうしたらいいですか」などと自分のチューナーの無能力を棚に上げて堂々と質問するような支援者が後を絶たないのです。
実は、この意思表出行動の裏に潜む本当の気持ちにチューニングできる能力は、支援者が自分の行動を注意深く自己分析する練習によって鍛え上げることができます。
例えば、先ほど挙げた他の家族の面会時のパニックのような「会いたい人に会えないときの気持ち」は、支援者自身が父親や母親、配偶者や子ども、恋人や友達に会えないときに生じる気持ちやしたくなる行動を自己分析することで想像することができます。
自分ならば「電話しようか、それともメールにしようか。少なくとも連絡が来るのを待っているのではなく自分から何らかの方法で連絡するだろうな。そうだ、面会をお願いして日程を決めてもらおう。そして、しばらく会っていなくて、次に会う約束もなくて寂しかったことを伝えて、解ってもらおう」等と考え、行動するのではないでしょうか。
4.ストーリーとしての人生から読み解く意思の所在
私たち支援者が用いる双方向のコミュニケーションは、単なる「情報のやりとり」ではありません。さらにその相手が知的障害だとしたら、さらに情報のやりとりという側面は小さくなります。情報を処理する能力に障害があるのが知的障害の特性であるからです。
やりとりされるのは、情報の裏にある感情や周辺状況なのです。その感情や周辺状況のやりとりこそが共感の基礎になります。
犬を見て、「あー!」という声を発し、指さした時に伝えたいのは、「ジス イズ ア ドッグ」という情報や説明ではなく「かわいいね」あるいは反対に「おっかない」や「うちにいるよ」「飼いたいなあ」という感情や周辺状況なのです。
さらに、「かわいいね」「おっかない」「うちにいるよ」「飼いたいなあ」等を的確に共感し返答するためには、その人の暮らしを物語として知っている必要があります。例えば、「とても大切にしていた犬、名前をシロっていうのだけれど、この間、いよいよ年老いて亡くなっちゃったの。とても悲しかったけれど、わたしは犬が大好き」ということを知っているのと知らないのとでは、返答がまるで異なるのです。その物語を知っていれば、「シロ、かわいかったですね、またお家にシロみたいな犬が来ればいいですね。今度お母さんに頼んでみましょうか」となるでしょう。
それでは、もう一つ考えてみましょう。
何回となく「ドラえもん」と伝えに来る方がいます。「ドラえもん」と同じように言い返してほしいのかと思い、その都度言い返しますが、まだ「ドラえもん」は続きます。DVDを観ても止まらないので、「ドラえもん」をみたいわけでもありません。思い返すと、イライラしているときに「ドラえもん」の伝達が多いような気がします。
そこで彼の気持ちになって「ドラえもん」の連想ゲームをしてみることにします。
・「ドラえもん」→青→四次元ポケット→猫型ロボット?
・「ドラえもん」→のび太→ジャイアン→スネ夫?
・「ドラえもん」→どこでもドア→いつも助けてくれる
→→→イライラしたときに言うということは「助けてくれ!」!?
そこでストーリーです。
「今日は朝から養護学校の初めての実習生が3人来ています。そのうち2人は穏やかですが、ひとりは、ずっと何かしゃべりながら、時々大声を上げています。わけのわからない人が来るだけでもイヤなのに、声を出し続けているなんてとても耐えられません。何とかならないの!?」
これでは確かに「ドラえもん!」と叫びたくなります。「そうですよね、そうですよね、朝から大変でしたよね。どうしたらいいのか相談していなくて申し訳なかったです。実習生に帰れというわけにもいかないから、今日は実習生とは離れたところで過ごせばいいですよ。どのお部屋が良いですか?」
これが、意思表出支援、意思形成支援、意思決定支援ということになります。
5.意思の存在の確信と応答への確信
乳児は泣くのが仕事などといわれます。泣いては母親を呼び、駆け付けた母親は必ず何らかのかかわりを持ちます。それがコミュニケーションの始まりです。次第に(とはいえ急速に)乳児には自分が何かを発すれば(発信すれば)必ず応答があるのだという確信が芽生えてきます。一回でき上がった確信は、たとえ時々応答がなかったとしても揺ぎ無く続き、母親への信頼になっていきます。応答への確信は、人を孤立させず、つながりの中での存在を保証します。
なぜ、母親は乳児の発信に対して応答し続けるのか。それは紛れもない乳児の意思の存在に対する確信があるからです。 「人」はつながりの中で初めて「人間」になることができますが、そのつながりをつくるのは、意思の存在への確信と応答への確信なのです。
どんなに障害が重くても意思があり、自分らしい人生を歩むことができる。彼らをつながりの中にとどめおくことができるのは、支援者が世間の常識に反して、この2つの確信を持ち続けることができるかどうかにかかっているのです。
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