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気持ちを抱きしめる抱っこ法
この3月18日、祐太(仮名)さんと久しぶりの「抱っこ法」があった。
こんなに「抱っこ法」の期間があいたことは、毎日のように手首を噛み、頭突きを繰り返し、足を踏み鳴らしていた何年か前には、なかったことだ。
その頃は、この自傷行動をどうにか減らし、彼をイライラの悪循環から救い出すためにと時間を無理に作り出しては毎月のように「抱っこ法」をしていたのだから。
いわゆる「問題行動」が、ないことが「抱っこ法」の必要性を減じさせていた。
このところの祐太さんは、ヘッドギアや手首のプロテクターの使用を拒否し、おむつの使用さえも拒否するようになっていた。
その姿を僕たちは「お兄ちゃん」に成り行く彼の前向きの精神の現れとして感じ、受け止め続けていた。
今回の抱っこは、長い間彼の担任だったM職員の定年退職のこともあり、設定されたものだった。
僕、みんなのこと好きになったんだ
抱っこが始まる。満面の笑みだ。祐太さんの幸福感が部屋の空気いっぱいに広がる。参加している職員の心の中まで浸透する。
「僕、みんなのこと好きになったんだ」そんな風に語っているかのように感じる。流れるハミングは、やさしく歌われるひな祭りのメロディー。
♪今日はたのしいひなまつり♪
彼の気持ちが、ぴったりと表現されている。
先生は金メダル
そして、この3月をもって退職されるM職員の話になる。
「ありがとうね、祐太さん。これで、お別れだけどまた会いに来るからね」と涙ながらの話が続く。
そして、それに対する祐太さんの返答が、またやさしいハミングでメロディーにのせてやってくる。
♪「デーデーデ、デーデ」♪
表彰式に使われるあの曲だ。
<そう、M先生は金メダルだよね。いっぱい頑張ってきたもの>
祐太さんの気持ちがメロディーに乗せて、ピタリピタリとこちらに届く。
言葉の代わりにメロディーで
僕らと祐太さんとの間には言語というコミュニケーション回路のかわりに「歌」というコミュニケーション回路が生まれていた。
「祐太さん、最後に今の気持ちを一曲歌ってよ」
宮下の願いに応えて流れてきた彼のお返事のメロディーは、「デーデーデー、デーデデ」……。♪兎追いしかの山♪……。
「そうだよね。やっぱり故郷は良いよね」喋れない祐太さんの精一杯の気持ちだった。