『こんにちは、赤ちゃん』
自分の妹が結婚して、赤ちゃんができる。そして自分は伯父さんになっていく。
そんな時、障害者である自分は、いったいどんな気持ちを抱くようになるのだろうか?何を考えるのだろうか?自閉症且つ知的障害である宏司さんにとって、二十二才の冬は大いなる試練の季節となったのであった。
なかなか宏司さんの障害は厳しい。最も彼を困らせるのは、感情表出の困難性と言われる障害だ。いま自分がどんなことを感じているのかが解り難い。解ったとしても、それをどのように表現したらいいのかが解らない。つまり、伝え方が解らないのだ。
例えば、心からやりたいと思っている時でも、答えは「ダメ~!おしまい~!」となってしまう彼の口。嬉しいはずのことでも、「もう~!」と怒りながら、足を踏み鳴らしてしまう彼の体。彼にとっては本当に不本意のことだろう。
妹さんの結婚が決まったことを伝えられたその直後の外出で、彼はソワソワし始めた。予感のあった担当職員は「今日はなんの買い物かな?」なんて言いながら、彼の本心を探り始める。すると宏司さん、だんだん怒りモードである。「もうダメ~!」「おしまい~!」と早足で歩きながら、足を踏み鳴らしている。そして、次は、妹の名前を大声で叫びながら、これも大声で「プレゼント!」。
そこで、ちょっと探りを入れてみます。「いろいろ考えていることがあるのなら、無理して、今日、買わなくてもいいんじゃないの?」と。彼は、怒りながら、売り場をどんどん進んでいく。そして、贈り物コーナーで妹の名とともに「プレゼント!」と大声。指差した先には、とってもかわいい写真立て、星の形がガラスで装飾されている。
誰が思いつきますか?妹さんの結婚のプレゼントに写真立て。この選択のセンスの良さには、宏司さんのやさしさがいっぱい詰まっている気がして、胸が一杯になってしまう。彼はこの写真立てにどんな写真を入れてもらいたいと思っているのだろう?
いよいよ赤ちゃんが妹と実家に帰って来て、明日が帰省日でご対面というその日、彼は朝からイライラした。次第に大声が出て、手が出て足が出てと、怒りは最高潮に達した。明日のご対面の用意は万全と考えていた職員集団には、全く彼がなんのことを伝えようとしてるのかが解らなかった。
「宏司さん、赤ちゃん抱っこしたいんじゃない?させてくれるか、それが心配なんじゃない?」職員は尋ねた。尋ねた途端、彼の怒りは大爆発した。話していても埒が明かないと感じた職員は、近くにあった人形とタオルで、急ごしらえの赤ちゃんをセットし、「赤ちゃんを抱っこする練習をしてみようよ」と提案した。彼は怒りながらも、その人形を受け取り、居室に入ってドアを閉めた。そっと覗くと、やさしく人形を抱っこしている彼、そこで支援方法は決まった。すぐに母に電話である。ざっと現在までの状況を説明して、「お母さん、宏司さん、赤ちゃん抱っこしてもいいですよねえ?」と職員が尋ねる。電話口に宏司さんが座る。母が答える。「おかあさん、宏司には抱っこしてもらいたいなあ、と思っていたのよ。そんなこと心配させてゴメンネ。お父さんだって、妹のKだって、宏司には、抱っこしてもらいたいなあ、と思っているに決まっているじゃない。大事なお兄ちゃんだもの、障害があるなんて、そんなこと心配しなくたっていいのよ。きっと上手に抱っこできると思うよ。」
彼の怒りと不安は、この母の言葉で、急速に消えて行った。
『本当の気持ちと出会うとき‐知的障がい者入所支援施設30年の実践を語り・伝える 見えないこころとこころを紡ぐ意思決定支援43の物語‐』宮下 智(著)より一部抜粋