基本的理念

無力さの痛感

昔(30年ほど前)…。
手首を血だらけになるほど噛み、腹部を引っ掻き、頭を壁にぶつけ、扉を足で蹴り倒す。その方の前で明らかに僕らは無力だった。傷を治すためにアメリカンフットボールのヘルメットをかぶり、特製のプロテクターで手首を覆った。そんな対症療法が僕らの仕事の慰めだった。

ガラスを割り、幼い子の手指を骨折させ、服を破り、食事を壁に塗りつける。やはりその方の前でも僕らは無力だった。彼に情熱をこめて人生を説くことが最高の支援であると勘違いをしていた。バランスを欠いた情熱は、専門家として欠いてはならない支援を、客観的評価するという姿勢を麻痺させていた。

掃除がイヤだといっては泣き叫び、食事が待てないといっては泣き叫び、じっとして居たくないといっては泣き叫ぶ。その方の前でも僕らは無力だった。雑巾がけができるようになり、食事が待てるようになり、じっとしていられるようになった先に、何があるのか、それを指し示すことができないまま、できるようになることだけに目標が置き続けられた。

『物語としての人生』という
行動理解

僕らは今『物語としての人生』という行動理解の方法と『向かう心の支援』という係わりの方法を手に入れ始めている。
『物語としての人生』とは、その人の人生を丸ごと理解しようという方法であり、『向かう心の支援』とは、その職員にとって、いちばん身近な人、それは例えば家族や友人だが、その方に向ける気持ちと同じような気持ちを、たとえどんなに重い知的障害のある方であってもきちんと向けてみるという支援の方法である。

叱責しなくても、お説教しなくても、訓練しなくても、取り上げることをしなくても、おそらく与え続けることによって、お互いに<幸せ>になれる方法を手に入れ始めている。それは、「I am OK, You are OK」という支援である。

ちょっと考えてみて欲しい。怒鳴って相手を指示通り動かした時、怒鳴った本人は、おそらくご満悦だろう、やっぱり自分は指導力があると。これは「 I am OK」の状態である。
しかし、怒鳴られたものの立場になれば、これは不快な状態であり、たとえそのときは言うことを聞いたにしろ、心の奥には、恨みと憎しみが沈殿している。これは「 You are not OK」の状態である。
「I am OK, You are not OK」では、お互いに幸福にはなれない。これは強者のみが幸福を享受できる方法である。さらに考えれば、怒鳴って手に入れた「 I am OK」は、本当に幸福の場所にその人を誘うことができるのだろうか?

40年、怒鳴り続けてたどり着いた場所は、おそらく荒涼とした孤独の地だろう。ぼくらが目指すのは明らかに「 I am OK, You are OK」に通じる道である。その場所はおそらく誰もが「共にいる」ことを感じることができる空間であるはずだ。

どんな方法でもいい、その想いを伝えていいんだ

伝えたい何かが伝わらないとき必ず<服を脱ぐ>彼女がいた。そんな時、僕らは決して<服を脱いじゃいけません>とは言わない。頭ごなしに<服を脱いじゃいけません>と伝えることは、究極の伝達の手段として、自分のプライドを捨てて、服を脱ぐことを選択せざるを得なかったその人に、<あなたは自分の想いを回りの人間に伝えようとしてはいけません>ということに等しいからだ。

人間は、伝えるために生まれてきている動物だ。皆さんは知っているだろうか、生まれたての赤ん坊の2つの目、その焦点距離は50cmのところにあることを。その50cm、母親が授乳のために赤ん坊を横抱きにし、その赤ん坊の向けられた視線の先、50cmのところにあるのは母親の顔なのである。

生まれたときには、すでに赤ん坊は母親の存在を、つまりは他者の存在を遺伝子の上に乗っけて生まれてきているのである。これはコミュニケートを前提に生まれてきていることを如実に示す真実である。「どんな方法でもいい、その想いを伝えていいんだ」これが支援者の第一歩目のスタンスである。

眠れなくて一晩中歩き続ける彼が居た。そんな時、僕らは<今日は眠れないんだね、一緒にいるから大丈夫だよ>と要求されるまま手をつなぎ、できるだけ一緒に歩いた。なぜなら彼には起きている権利があるからだ。

「選択の自由」と「失敗の自由」

人間には二つの自由がある。それは「選択の自由」と「失敗の自由」である。ここでは「寝るか寝ないか」、そして「寝なかった時の苦しさ」を指し示すのであるが、全てが自由の上に保障されなければならない。

犯されたくない自由は、まずは人間の生理的要求に根ざすものである。それは「睡眠」「排泄」「食事」である。いつ寝るのか、いつオシッコやウンコをするのか、そしていつ食べるのか、それが命令形の中で、「寝る時間だぞ」「オシッコ、ウンコへ行く時間だぞ」「食事の時間だぞ」で支配されれば、そこはもう塀の中と同じである。

「選択の自由」が与えられて、初めて人間は悩むことができるのであり、悩むことが人間を大きくするのである。また、悩んだ末の答えがたとえ失敗につながっても、それによって生じた自己責任が、人間を大きくしていくのである。知的障害者には無理だろうって?それは実践家が口にすべき言葉ではない。実践して確認すれば、どんなに障害が重い方であっても、自己選択と自己責任の道は拓かれていることが実感できるだろう。

かれこれ20年間、目を硬く閉じ暮らし続ける彼女がいた。そんな彼女に僕らは<何もかも一人でやろうとするなよ、ここに僕らがついている。やりたいこと、助けて欲しいこと何でも言って欲しいなあ>と伝え続けた。だって<幸せ>はたった一人が我慢することによって作り上げるものじゃないから。

“本当の気持ち”を大切にする『お心主義』

自分から好き好んで、入所施設に入ろうなんていう方はほとんどいない。ましてや明星学園は児童入所施設であったから、メンバーさん方の入所は5才、6才である。そんな子どもの年令で、「ぼくは知的障害を克服するために、早く親元を離れて訓練に励むんだ。」なんて絶対思わないだろう。

特別養護老人施設に入所する高齢者の方々が「私が特養に入所しさえすれば、息子や嫁にこれ以上の迷惑をかけなくてすむ」と考えるのと同じように、目を閉じ続けながら彼女は、「私さえ明星学園に入所すれば、私さえ明星学園で我慢すれば、お父さんやお母さんにはこれ以上の迷惑はかけなくてすむ、お父さんやお母さんにはもっと幸福になって欲しい」と考え続けていたのだ。

僕らの支援の方法は、まずもって利用者の方々の“本当の気持ち”を大切にするという意味で『お心主義』である。しかし、多くの方々が発語をコミュニケーションの手段として持たない重い知的障害のある方々との係わりの中で“本当の気持ち”に到達する術は、生半可な道じゃない。

本当の気持ちが伝わりさえすれば、<いつかきっと、いつかきっと変わるから>と。
適切な支援さえあれば、<誰にでも自分を変えていく力が自分の中にあるのだから>と。

僕らは絶え間ない行動観察を続け、行動理解のための仮説を同時並行的に立ち上げ、仮説検証のための実践を“本当の気持ち”にたどりつくまで繰り返す。決して途中で挫けないタフな気持ちと、絶対にうまくいくと信じる楽天性を武器にして。

この方法を明星学園では「名探偵コナンへの道」と称す。一方、アメリカ自閉症協会の言葉では、「Solve the Puzzle!」という。意味するところは全く同じである。

お心主義を支えるもの

そんな僕らの方法−お心主義−を支えているのは、『抱っこ法』『(乳幼児)精神分析』『TEACCHプログラム』『臨床動作法』『マカトン法』−療育の5本柱−から得た知見と哲学である。

抱っこ法

『抱っこ法』からは、健常(定型発達)といわれる我々と重い知的障害がある方々とが人間的にはなんら変わらない存在であること、パーフォーマンス(できるorできない)という点を取り上げれば健常(定型発達)といわれる我々が圧倒的に優位(例えば1+1=2についての理解の方法、スピード、箸を持つといった能力の獲得等考えてみればいい)であるけれど、情緒的な側面(悲しい、悔しい、心配だ、不安だ、怒り、嬉しい、楽しい、やさしさ、思いやり等)から考えれば全く同じだということ、そして時には我々よりも豊かな感受性を示すことがあることをいつも教えられている。

僕らの支援は、「癒し」と「励まし」のバランスの上にある。それは「母性的な係わり」と「父性的な係わり」と置き換えることもできる。同じ方への係わりが、その重点を癒しから励ましへシフトする、また同じ方への係わりでも、癒し担当と励まし担当とに職員の役割を分化させる。横に縦に、「癒し」と「励まし」が錯綜しながら支援は展開していくのである。

(乳幼児)精神分析

『(乳幼児)精神分析』からは、自分らしい人生を歩むためには主体的な動きこそが大切であり、その主体的な動き(自己選択、自己決定)を見守り、保障することが肯定的な自己像を形成していくための必要条件であること、また人間の理解とは、一つ一つの行動の積み重ねとしてではなく、複雑に絡み合った人間関係の集合体として、今まで生きてきた人生丸ごとを説明できなければ不可能であることを教えられた。
また、言葉を上手に繰れない知的障害、自閉症の方々にとって、身体の変化、行動の変化を通じて表現される様々な伝達内容の理解、これを現象学的な理解というが、これこそが、彼らの本当の気持ちを理解するのに欠くことができない方法であることを教えられている。

TEACCHプログラム

『TEACCHプログラム』からは、闇雲に我慢することや待つことが、どれだけ人間の心に心理的な負荷をかけ、不安や焦燥感を増幅させるのか、そして、同じ我慢するにしても、先の見通しを持って我慢することが、いかに人間を落ち着かせ、穏やかにし、適応力を高め、安心させるのかを学んだ。
このTEACCHプログラムの主要な概念である「構造化」の手法は、簡単に言えば「その人にとって、わかりやすく伝えること」であるが、支援のスタートはまずそこにある。未開の、初めて訪れる外国の地のような何もかもがわからない場所に住み、暮らすような不安感、孤独感の中では、決して豊かな暮らしなど成立しないのだから。

臨床動作法

『臨床動作法』からは、待つこと、信じることの大切さを教えられている。期待に応えようと頑張りたい主体が、今、目の前にいるという実感を手に入れることができる。動作課題に向うときの係わりには、日常的な支援の凝縮があるのである。

「こうしてみない?」「できるかな?」「そうか、難しいのか」「そうか、イヤなのか」「そうそう、頑張れるじゃないか」、動作課題を遂行する時のこのようなやりとりは、日常的な支援へ般化させることができるのである。いうなれば、動作法的支援というわけだ。

僕らは、絶対できるようになると、どこかで確信しながら、そのアプローチの方法は様々であることを動作法を通じて学び取ることができる。たとえ重い知的障害があっても、何かを少しでもやり遂げたいと思っている主体なのであることを、目の前で感じることが、個として尊厳する道にも通じる。

マカトン法

『マカトン法』は、伝わるのなら何でもいいじゃないかというコミュニケーションの基本を僕等に教えた。伝わることの嬉しさを教えてくれた。
写真カードを多用するようになって、現在ではその必要性が減じてはいるが、覚えていれば、つまり記憶している頭だけ持参すれば、支援としては成立するこの支援方法は、施設では常に有効である。

感情労働従事者が目指す道

さあ、ここで我々の職業の専門性について考えてみたい。
今<専門性とは何か?>と問われて、こう答えるとしよう。

『個々の障害特性を理解しながら、その方の主体的な生き方を保障するために、彼らの<本当の気持ち>を理解することのできる方法を獲得し、またそれを検証する実践ができることである。』と。

この専門性の定義には、二つの側面がある。一つは、<本当の気持ち>を理解するという豊かな共感性、センスである。そしてさらに一つは<本当の気持ち>がわかった時に、その願いをかなえることができるような支援が実践できるかという行動力である。

共感性、センスはもちろん大切だが、我々は後者の実践力をより大切なことだと考えたい。そしてこの実践力は「学び」によらなければ身につかない。
「私たちの仕事は、昨日と違うその人を発見することですよね」これはある先輩職員が残してくれた言葉である。あるいは「僕らの仕事はホテルの客室係(今風であれば、コンシェルジェというところか?)と同じですよね。これから夜勤に入ります。何かご要望、ご不満の点がありましたら、すぐにお申し出下さいですから」これもある先輩職員が残してくれた言葉である。

いずれも僕らの仕事の専門性を鋭く言い当てている言葉である。「昨日と違うその人を発見する」ためには、その方にまずもって関心を寄せなければならない。細かな観察能力も必要である。関心を寄せるということは他ならぬ共感するための第一歩の姿勢である。

また、僕らが提供する実践は、必ず「快」を伴わなくてはならない。僕らの仕事は、対人間相手の仕事である。これを感情労働と呼ぶ。感情労働者は「快」の提供者であり、サービス提供者である。叱ることでさえも「快」を目指さなくてはならないのである。誰が目指すにしろ、困難な道だろう。40年、この仕事に従事しても、答えは見つからないかもしれない。しかし、感情労働に従事している以上、目指さなければならない道なのである。(その答えのヒントは、罪を憎んで人を憎まずという言葉の中にあることはわかっているのですが…。)

常識の作り直し

僕らの実践はどこへ向かおうとしているのだろうか?<本当の気持ち>を理解し続けた先には何があるのだろうか。それを考えるヒントは自分自身に次のように問うてみたところにあるのではないかと思う。

それは、「幸福ってなに?」「生まれてきて良かったと思う時はどんな時?」「生きがいを感じる時ってどんな時?」「自立ってなに?」「自律ってなに?」というような質問群である。

どの質問にも、おそらく正解はない。答えは人それぞれである。しかし、誤ってはならないのは、この質問の答えを出そうとする時、健常(定型発達)といわれている我々と重い知的障害がある人とを分けて考えてはならないのである。

質問はみな、人間の営みに関することばかりである。重い知的障害のある方々だって人間であるのだから、この答えは人間全てを説明するものでなくてはならないのである。それは、今まで自分が培ってきた常識を一旦捨てるところから始まるのかもしれない。僕らの常識は、重い知的障害の方々を仲間に含めることをしない世界で作られたものである。僕らは「お心主義」を武器にしてこの仕事にたずさわるとき、この重い知的障害ある方々を仲間に入れて常識を作り直さなくてはならないのだ。

僕らは重い知的障害のある方々にとって行動全て(自傷、他害、パニック、下痢、てんかん発作、便秘、反復強迫行動、不眠、断続眠、自律神経症状……)が発信だと考える。これだって新しく手に入れた常識だ。弱い立場の人間は、もちろん重い知的障害がある方々を含めて、自分はみんなに迷惑をかけている、自分は駄目な奴だ、自分が生まれてきたばっかりにお母さんは苦労している、自分ひとりさえ我慢すればみんな幸せになれると考えている。こんな事実も新しく手に入れた常識である。

例えば自立はこうなる。<自分の人生は自分で決めながら自分らしく生きること>
例えば自律はこうなる。<自分の決めた目標に向かって、主体的に努力していくことができる姿>

これだったら、僕らと重い知的障害がある方々とは同じ土俵である。今、幸福を「大人になること」と考えてみよう。

彼らにとっては「お兄さん」や「お姉さん」になることと考えてもいい。大人になること、それはたくさんの人と多様な場面で折り合いがつけられるようになることである。

しっかり自己主張をしながら、ゆずったりゆずられたりが柔軟にできる姿である。また、大人になることとは、たくさんの人を好きになれる、上手につきあうことができるということである。お母さん以外に、お父さん以外に、職員以外に。

たくさんの人を好きになれるということは、肯定的な自己像の持ち主であるということである。自分に自信がない人、自分は駄目な奴だと思っている人間(否定的自己像)は、人を好きになれないからである。肯定的な自己像の持ち主は、人をちゃんと好きになって、きちんと別れることができる人である。一番大好きな母親は、自分より先に亡くなるに決まっている。きちんと別れられなくてどうする!?

そして肯定的な自己像の持ち主は、人に感謝することができる人である。知的障害者として生まれた故の妬みや恨み、入所施設での大集団生活が生むいくつもの不当な我慢から来る憎しみや怒りを越えて、ありがとうを伝えることができる人である。

幸福になるためには、ちょっと大変な、いくつものハンディキャップを持った彼らが、全てを飲み込み、咀嚼して、消化したその先には「感謝」が待っているのである。
そして大人は、自分のことを自分で主体的に伝えることができる人である。つまり、『そのひとに このことを わかりやすいかたちで 直接 伝える』ことができる人である。

気持ちをわかってくれない職員に対して怒りを感じているのに、それをガラスにぶつけてしまう人、自分の手を噛んでしまう人、これは大人じゃない。職員に怒っていれば、職員を叩けばいいし、噛めばいい。その方がずっとわかりやすいし、直接的だ。

見捨てられるのが恐くて、イヤと言えないその人も大人じゃない。ニコニコ笑って、イヤなことをしていたんじゃ、誰もそれをイヤだなんてわかってくれない。ちっともわかりやすくないじゃないか。3日も4日も経ってから、前のことを怒りだしても、そんなことは誰も気がついてはくれまい。本当の気持ちはできるだけそのときに表現した方が、自分もわかりやすいし、回りもずっとわかりやすいのだ。

嬉しかったや楽しかったは、人に伝えやすい気持ちである。ところがそれに比べて、苦しいことや挫けたい気持ち、頑張りたくない気持ち、そして主観的にはわがままだと思う気持ち、そして助けて欲しいという気持ちは伝え難いものだ。自分の弱みを見せることだからね。でもこれが上手にわかりやすいかたちで伝えられてこそ『幸福』ってやつじゃない?